LOGIN沙耶が外で夕食を済ませて帰宅したのは、午後九時を少し過ぎた頃だった。
一人で食べたのは、駅近くの小さな洋食店だった。以前から存在は知っていたものの、遼一が脂の多い料理を好まないため、夫婦で入ったことは一度もない店だった。
何を食べたいのか考えた末、沙耶はオムライスを頼んだ。
深い理由はなかった。
ただ、メニューを開いて最初に目についたからというだけだった。
半熟の卵にスプーンを入れながら、ふと、自分はこの七年間、料理を選ぶときですら遼一の好みを先に考えていたのだと気づいた。
それを「犠牲にしてきた」と言うつもりはない。
好きな相手が嫌いなものを避け、体調が悪ければ食べやすいものを選ぶ。そんなことは夫婦なら珍しくもないだろう。
けれど一人になった途端、「私は何が好きだったんだっけ」と一瞬考え込んでしまった自分には、少し驚いた。
オムライスは美味しかった。
それだけで、なぜか泣きそうになった。
誰かの好みに合わせず自分で選んだ夕食が、こんなにも些細で、こんなにも新鮮なのだということが可笑しかった。
マンションへ戻り、玄関の鍵を開ける。
リビングには明かりがついていた。
遼一はソファに座り、ノートパソコンを開いていたが、仕事に集中しているようには見えなかった。沙耶が入ってくると、すぐに画面を閉じる。
「おかえり」
「ただいま」
またいつもの言葉を交わしてしまい、沙耶は靴を脱ぎながら小さく息を吐いた。
人間は、関係が壊れても生活の癖まではすぐに壊せない。
玄関棚を見ると、夕方そこへ置いた結婚指輪はまだ同じ場所にあった。
遼一も見たはずだ。
けれど触ってはいないらしい。
沙耶はバッグを置き、コートを脱いだ。
「夕飯は?」
「食べた」
「そうじゃなくて、あなた」
「ああ。適当に」
テーブルにはコンビニのサンドイッチの袋と、半分ほど残ったペットボトルの水が置かれている。
昔なら「ちゃんと食べなさい」と言っただろう。
今は言わなかった。
その程度の変化なのに、遼一は気づいたようだった。
「何食べてきた?」
「オムライス」
「珍しいな」
「そう?」
「家ではあまり作らないだろ」
「あなたがあまり好きじゃないから」
遼一は何か言いかけて黙った。
沙耶も、その言葉を責めるために言ったわけではない。
事実を答えただけだ。
しかし二人の間では、昨日までなら何でもなかった事実の一つ一つが、今は別の意味を持ってしまう。
沙耶はバッグから財布を取り出し、キッチンカウンターの上へ置いた。
「明日、午前中に弁護士事務所へ連絡するつもり」
遼一の顔が少し硬くなる。
「もう決めたのか」
「相談するって昨日話したでしょう」
「分かってる」
返事はしたものの、声には納得していない響きがあった。
沙耶は冷蔵庫から水を出してグラスへ注いだ。
遼一が背後から言う。
「沙耶」
「何?」
「少し話せるか」
沙耶はグラスを持ったまま振り返った。
「離婚条件の話?」
「それとは別」
珍しく歯切れが悪い。
沙耶は向かい側の椅子へ座った。
「いいよ」
遼一はしばらく何も言わなかった。
話があると言い出した本人が黙り込んでいる。
沙耶は急かさなかった。
今までなら、遼一が言葉を探しているときには「仕事のこと?」とか「会社で何かあった?」と助け舟を出した。
それをやめた。
すると遼一は思った以上に長く黙っていた。
ようやく口を開いたとき、出てきたのは沙耶の予想とは違う言葉だった。
「お前、本当に離婚するんだな」
沙耶は少し眉を寄せた。
「昨日そう言ったでしょう」
「そうだけど」
「離婚してほしいと言ったのはあなたよ」
「分かってる」
「なら、何が聞きたいの?」
遼一はソファの背へ体を預けた。
「いや……なんというか、こんなに簡単に決めるとは思ってなかった」
その言葉に、沙耶はしばらく反応できなかった。
意味を理解してから、少し可笑しくなった。
「簡単に?」
「言い方が悪かった」
「最近そればかりね」
「茶化すなよ」
「茶化してないわ。あなた、本当にどういう意味で言っているの?」
遼一は口元を引き結んだ。
沙耶は待った。
やがて彼は、いくらか投げやりな声で言った。
「もっと揉めると思ってた」
「揉めてほしかったの?」
「そうじゃない」
「でも、昨日も私が離婚を受け入れると思っていなかったみたいだったし、今日も『こんなに簡単に』って言う。私には、あなたが何を望んでいるのか分からない」
遼一は髪をかき上げた。
「俺だって自分でもよく分からないんだよ」
「だったら、分かるように話して」
「沙耶は何とも思わないのか?」
「何とも?」
「俺が別の女を好きになって、離婚したいって言ったことだよ」
今度こそ沙耶は言葉を失った。
一体、この人は自分の何を見ていたのだろう。
昨夜、自分が泣いていないからか。
愛人に掴みかからなかったからか。
大声で罵倒しなかったからか。
「何とも思っていないように見える?」
「そういうわけじゃない。ただ……」
遼一はそこで言葉を止めた。
「何?」
「もっと何か言うと思ってた」
「だから、何を?」
「俺に」
沙耶はグラスをテーブルへ置いた。
その音が思ったより大きく響いた。
「私、あなたに聞いたでしょう。不倫がいつからだったのかも、どうしてこうなったのかも、葉山さんとどうなりたいのかも。離婚を考えていたのがいつからだったかも聞いた。それでも足りない?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話?」
遼一の苛立ちが少しずつ表に出てくるのが分かった。
けれどそれは、昨夜のように責められて不快になっているだけではなさそうだった。
もっと扱いに困る感情。
本人自身が認めたくないものを抱えている顔だった。
「何か……あるだろ」
「何かって?」
「七年も夫婦だったんだぞ」
「知ってる」
「じゃあ、そんなに簡単に『分かった、離婚する』で終わるのか?」
沙耶は目の前の男を見つめた。
そこでようやく、遼一が何を言わせたいのか分かった気がした。
「引き止めてほしかったの?」
遼一の表情が止まった。
「そんなこと言ってない」
「でも、そういうことに聞こえる」
「違う」
「じゃあ、何を言ってほしかったの?」
遼一は答えない。
沙耶は胸の中に、じわじわと怒りが湧いてくるのを感じた。
昨夜とは違う怒りだった。
昨日は裏切られた痛みが大きすぎて、怒るところまで辿り着けなかった。
今は少しだけ現実に慣れた分、夫の身勝手さが見えるようになった。
「『行かないで』って言ってほしかった?」
「沙耶」
「『私を捨てないで』って泣いて、葉山さんと別れてって頼めば満足だった?」
「そんな言い方するなよ」
「じゃあ、どんな言い方をすればいいの?」
思ったより強い声が出た。
けれど沙耶は謝らなかった。
「あなたは自分から離婚してほしいと言ったのよ。葉山さんと生きていきたいって、私の目の前で言った。だったら、私は何をすれば正解だったの? あなたの腕にしがみついて、自尊心まで全部捨てて、行かないでって頼めばよかった?」
「そこまで言ってないだろ」
「でも、私が引き止めなかったことに腹を立ててる」
「腹なんか立ててない」
「立ててるわよ」
遼一が黙った。
その顔を見て、沙耶は確信した。
「あなた、自分で気づいてないの?」
「何に」
「私が離婚を拒まなかったことが気に入らないのよ」
遼一の眉が動く。
「そんなわけないだろ。俺は離婚したいって言ったんだぞ」
「だからおかしいの」
沙耶は少し身を乗り出した。
「あなたは離婚したい。葉山さんと一緒になりたい。私にもそれを受け入れてほしい。でも、私が本当に受け入れたら今度は面白くない。私に傷ついてほしいけれど、責められたくはない。引き止めてほしいけれど、残るつもりはない。全部、自分に都合がよすぎない?」
「勝手に決めつけるなよ」
遼一の声が強くなった。
「俺はそんなふうに考えてない」
「じゃあ、どう考えてるの?」
「だから分からないって言ってるだろ!」
初めて遼一が声を荒らげた。
沙耶は驚いたが、黙らなかった。
リビングに重い沈黙が落ちた。
遼一は大きく息を吐き、額を手で押さえた。
「悪い」
「うん」
「怒鳴るつもりじゃなかった」
「分かってる」
沙耶は水を一口飲んだ。
胸はざわついていたが、もう昨日ほど言葉を失わなかった。
しばらくして、遼一が低い声で言った。
「俺は……お前が俺なしじゃ困ると思ってたのかもしれない」
沙耶は何も言わず聞いた。
「仕事辞めてから、ずっと家のことやってただろ。会社の仕事に戻るつもりもなさそうだったし、親父や母さんのことまで面倒見てくれてた。俺が仕事で遅くなっても、家にいるのが当たり前で……」
「それで?」
「だから、離婚って言ったら、もっと怖がると思ってた」
正直な言葉だった。
だからこそ、沙耶にはきつかった。
「私が一人では生きられないと思っていたのね」
「そこまでじゃない」
「同じでしょう」
「違うって」
「何が違うの? 私は仕事を辞めた。今は専業主婦で、自分の収入もない。あなたのお母様の用事も引き受けて、あなたの生活に合わせてきた。だから離婚を言い渡されたら、生活に困ると思っていたんでしょう?」
遼一は否定しなかった。
その沈黙が答えだった。
沙耶は胸の奥が痛むのを感じた。
不倫を知ったときとは、また違う痛みだった。
あれほど支えてきた相手に、自分が「夫に依存して生きている女」に見えていた。
「遼一。私が仕事を辞めたときのこと、覚えてる?」
「ああ」
「あなた、最後まで反対したよね」
「覚えてる」
「私が『後悔したらまた働く』って言ったことも?」
遼一の目が少し揺れた。
「……覚えてるよ」
「なら、どうして今は、私はもう何もできない人になってるの?」
「そんなこと言ってない」
「でも、そう思ってたんでしょう」
沙耶は責める声ではなく、確認するように言った。
「私は、仕事ができなくなったから辞めたんじゃない。あなたが会社を継ぐことになって、二人とも余裕がなくなったから、自分で選んで辞めたの。もちろん、その選択が正しかったかどうかは今になれば分からない。でも、私はあなたの扶養に入るために、それまでの自分を全部捨てたわけじゃない」
遼一は苦い顔をした。
「分かってる」
「分かってなかったから、私が離婚を拒むと思ったんじゃない」
返事はない。
沙耶はそこで、ようやく昨日から引っかかっていたものの正体が見えた気がした。
遼一は、自分が選ぶ側だと思っていた。
莉奈を選ぶ。
沙耶を捨てる。
妻は傷つき、すがり、自分は申し訳なさそうにそれを振り切る。
おそらく、本人が意識して筋書きを作ったわけではない。
けれど心のどこかでは、自分には選ぶ力があり、沙耶は選ばれる側だと思っていたのだ。
それが、思いがけず崩れた。
沙耶自身が「あなたと生きない」と選び返したから。
「あなたに一つ、言っておくね」
沙耶は穏やかに言った。
遼一が顔を上げる。
「私は、離婚したいわけじゃなかった」
遼一の表情が変わった。
「昨日まで、そんなこと考えたこともなかった。あなたが私以外の人と暮らしたいなんて知らなかったし、普通にこの先も夫婦でいるつもりだった」
「だったら――」
遼一が口を開きかけた。
沙耶は首を振った。
「でも、あなたが私じゃない人と生きたいと言ったのよ」
言葉を区切りながら、自分自身にも聞かせるように続けた。
「だったら私は、あなたを引き止めるために、自分をもっと惨めにする必要はないでしょう」
遼一の唇がわずかに開いた。
何も出てこない。
沙耶は初めて、自分の中にあった思いをはっきり言葉にできた気がした。
「あなたを愛していたから、行かないでって言いたい気持ちはあるよ。今だって、全部夢だったらいいのにと思う。でも、私が泣いて頼んだら、あなたは葉山さんを嫌いになるの?」
遼一は答えられない。
「ならないでしょう」
「……ああ」
「私が床に手をついてお願いしたら、もう一度私を愛せる?」
遼一は顔を歪めた。
「そんなことさせるつもりはない」
「分かってる。でも答えは同じでしょう」
遼一は俯いた。
「たぶん、そうだ」
「だったら、しない」
沙耶はそれだけ言った。
不思議なほどすっきりした。
泣きたくないから強がっているわけではない。
夫を取り戻す方法がないから諦めた、というだけでもない。
自分の尊厳まで差し出して残ってもらったところで、それはもう自分が欲しかった夫婦ではない。
遼一は長い間、何も言わなかった。
やがてソファから立ち上がり、窓際まで歩いた。
高層階の窓の向こうには、夜の街が広がっている。
数えきれないほどの部屋に明かりが灯り、その一つ一つに別々の暮らしがある。
遼一は背中を向けたまま言った。
「お前、変わったな」
沙耶は思わず苦笑した。
「昨日から?」
「そういう意味じゃない」
「なら?」
「昔はもっと……」
「もっと何?」
「俺のことを必要としてた」
その言葉に、沙耶は少し考えた。
「必要だったよ」
「だった?」
「今も、昨日までの私なら必要だったと思う」
「……昨日まで?」
「うん。でも、必要としていることと、その人がいなければ生きられないことは違うでしょう」
遼一が振り返る。
沙耶はまっすぐ彼を見た。
「あなたは私の夫だった。大切な人だった。だから必要だった。でも、あなたが夫でいることをやめたいと言うなら、私は一人で生きる方法を考える」
「そんな簡単に言うけど、七年ブランクがあるんだぞ」
「分かってる」
「仕事だって、昔みたいにすぐ戻れるとは限らない」
「それも分かってる」
「生活だって今までと同じには――」
「だから?」
遼一が止まった。
沙耶は淡々と続けた。
「大変だから、不倫している夫に残ってもらうの?」
「そういう意味じゃない」
「だったら言わないで」
自分でも少し厳しかったと思う。
それでも今の沙耶には必要な線引きだった。
「私が困るかどうかは、これから私が考える。仕事が見つからなくて後悔することもあるかもしれない。生活の水準を落とさなきゃいけないかもしれない。それでも、それを理由にあなたに『妻でいさせてください』とは言わない」
遼一は何も言わなかった。
しばらくしてスマートフォンが震えた。
ローテーブルの上に置かれた遼一の端末。
画面は沙耶の位置から見えなかった。
けれど遼一は確認し、すぐ伏せた。
「葉山さん?」
沙耶が尋ねる。
遼一は一瞬迷い、それから答えた。
「ああ」
「出れば?」
「いや、いい」
「どうして?」
「今はお前と話してるから」
昔なら、その一言が嬉しかったかもしれない。
今は何とも言えない気持ちになった。
沙耶は立ち上がった。
「もう今日はいいかな。疲れた」
「沙耶」
「何?」
「本当に何も……言いたいことないのか」
沙耶は少し考えた。
言いたいことなら、いくらでもある。
どうして裏切ったの。
どうして私じゃ駄目だったの。
七年間は何だったの。
葉山さんのどこが私よりいいの。
私より綺麗だから?
若いから?
仕事をしているから?
子どものこと?
女として見られなくなった?
一度口にしてしまえば、朝までだって問い続けられる。
けれど、その中に遼一が今欲しがっている答えはない。
「あるよ」
沙耶は言った。
遼一がこちらを見る。
「何?」
「幸せだったときまで、嘘にしないでほしい」
遼一の表情が固まった。
「葉山さんとこれから生きるために、私たちの七年間がずっと冷めてたとか、最初から合わなかったとか、そういう話に変えないで」
「そんなことするつもりはない」
「ならいい」
沙耶は寝室へ向かいかけ、途中で立ち止まった。
「それから、明日からあなたの朝ご飯は作らないから」
遼一は拍子抜けした顔をした。
「……急に現実的だな」
「現実だから」
「コーヒーも?」
「説明書、読めたでしょう」
「一応」
「じゃあ大丈夫」
少しだけ可笑しくなって、沙耶は口元を緩めた。
遼一は笑わなかった。
むしろ、その程度のことが思った以上に堪えたような顔をしていた。
沙耶はそれに気づいたが、何も言わず寝室へ入った。
翌朝。
いつもの時刻に目が覚めた。
沙耶は洗面所へ行き、自分の分だけ湯を沸かした。
トーストを一枚焼き、ヨーグルトと果物を小さな皿に盛る。
遼一の分は作らない。
初めてだった。
七年間の結婚生活で、夫が家にいる朝に、自分の分だけ朝食を用意したのは。
遼一が寝癖のついた髪のままリビングへ入ってきた。
テーブルを見る。
「俺のは?」
「昨日言ったでしょう」
「ああ……そうだった」
遼一は一瞬立ち尽くしたあと、自分でコーヒーメーカーへ向かった。
説明書を開き、豆の量を確かめ、水を入れる。
沙耶は黙ってトーストを食べた。
何度か遼一がこちらを見る気配がしたが、助けなかった。
しばらくして機械が動き出す。
「できた」
遼一が少しだけ得意そうに言った。
沙耶は思わず笑った。
「コーヒーを淹れただけでしょ」
「昨日までできなかった」
「三十七歳で自慢することじゃないわよ」
「うるさい」
そのやり取りだけなら、以前と変わらない夫婦だった。
しかし遼一が冷蔵庫を開け、朝食になるものを探し始める。
「卵って、どう焼くんだっけ」
沙耶はパンを噛みながら答えた。
「七年前、新婚三日目にやったでしょう」
「焦がしたやつか」
「覚えてるじゃない」
「弱火が分からない」
「七年経っても?」
遼一は困った顔でフライパンを取り出した。
沙耶は手伝わなかった。
その姿を見ながら、胸の奥が少し痛んだ。
昨日までなら、自分がやったほうが早いと思って立ち上がっていた。
今日からは違う。
一つ一つ返していくのだ。
遼一自身がやるべきだったことを。
自分が背負っていたものを。
卵を割る音がして、少しして焦げた匂いが漂った。
「おい」
「何?」
「これ、火強い?」
「見れば分かるでしょう」
「煙出てる」
「なら強いんじゃない?」
遼一が慌てて火を弱める。
昔と同じだ。
けれど、沙耶はもう隣に立って笑いながら教える妻ではなかった。
その小さな違いを、遼一も感じ取っているようだった。
沙耶は食器を流しへ運び、バッグを手に取った。
「出かけるのか?」
「うん」
「どこへ?」
「弁護士さんに相談してくる」
遼一の手が止まった。
フライパンの上では、二度目の目玉焼きまで端が焦げ始めていた。
沙耶は玄関へ向かった。
背後から、遼一が呼ぶ。
「沙耶」
振り返ると、夫は何か言いたそうにしていた。
しかし出てきたのは、昨日と同じような曖昧な表情だけだった。
沙耶は少し待ってから尋ねた。
「何?」
遼一は結局、首を振った。
「……気をつけて」
「ありがとう」
沙耶は家を出た。
扉が閉じる直前、キッチンから焦げた匂いが追いかけてきた。
七年間、沙耶がいれば何も考えずに始まっていた朝。
その一つ目が、今日、なくなった。
まだ遼一は知らない。
自分が手放そうとしているものが、妻という肩書きだけではないことを。
第25話 妻に頼らず仕事を回すために、会社を変えなければならなかった翌朝、遼一が出社すると、昨夜自分で追加した一枚の資料が机の上に残っていた。『この商品を、誰のどんな時間に置くのか』見出しだけなら、以前沙耶が作っていた資料とよく似ている。だが、中身はまだ半分しか埋まっていなかった。三十五歳から五十歳を中心とする既存顧客。仕事を終えて帰宅した夜。休日の朝。来客前。自分のために部屋を整えたいとき。贈答用なら、親しい相手の新居祝いや誕生日。いくつか書いてみたものの、どれもどこか商品企画書らしい言葉で、生活の匂いが薄い。遼一は椅子へ腰を下ろし、しばらくその一枚を見つめた。沙耶へ聞けば早い。その考えは昨夜すでに捨てた。ならば会社で作るしかない。問題は、誰に作らせるかではない。どうすれば今後も会社の中で考えられるようになるかだった。午前九時、遼一は秘書へ内線を入れた。「長谷川部長と商品企画の高田課長、それから営業から一人、EC担当から一人。十時に小会議室を押さえてくれ」『広告代理店も呼びますか?』「今日はいい。社内だけでやる」『承知しました』通話を切り、遼一は資料を閉じた。以前なら、各部署から上がってきた情報を自分がまとめ、最後に沙耶へ見せる。それで十分だと思っていた。会社の中で作れない部分を、家庭で補っていたのだ。しかも無料で。その状態を「自分は仕事ができる」と思っていた。認めたくないが、そこはもう認めるしかない。十時。小会議室に集まったのは、マーケティング部長の長谷川、商品企画課長の高田、法人営業の女性課長・野村、EC担当の三十代男性・石井だった。全員、急な招集に少し戸惑っている。遼一は昨夜作った一枚を配った。「今日は広告案を決める会議じゃない」長谷川が資料を見る。「これは?」「新
第24話 元妻がいなくなって初めて、会社の会議が噛み合わなくなった神崎ライフスタイルの新商品発表会まで、残り三週間。午前九時から始まった広告戦略会議は、一時間二十分を過ぎても結論が出ていなかった。遼一は会議室の正面で腕時計を確認し、目の前の資料をもう一度めくった。新商品は、ホテル客室や一般家庭向けに展開する高価格帯のルームフレグランスシリーズだった。香りそのものは悪くない。開発には一年近くかけている。容器のデザインにも金をかけた。大手百貨店二社との商談も進み、自社ECだけでなくホテルのアメニティ展開も視野に入れている。会社としては、今期後半の柱にしたい商品だった。だからこそ、広告で失敗するわけにはいかない。「もう一度整理しましょう」遼一が言うと、広告代理店の担当者がパソコンを操作した。大型モニターへ、三種類のキービジュアルが映る。一つ目は、若い女性モデルを全面に出した華やかな案。二つ目は、白を基調に商品だけを見せる高級感重視の案。三つ目は、ホテルの客室を背景にしたライフスタイル提案型。どれも悪くない。だが、どれも決め手がない。「葉山さんは一案目を推すんですよね」マーケティング部長の長谷川が確認すると、莉奈が頷いた。「はい。SNS広告まで考えるなら、一番止まってもらいやすいです。商品だけの静物だと、高級感は出ても拡散は弱いと思います」「でも既存顧客は四十代以上が中心だ」営業本部長が言う。「若い女性へ振りすぎると、今までのブランドイメージから浮かないか?」「だから今回は新規層を取りにいくんじゃないんですか?」莉奈はすぐに返した。「既存顧客だけ見ていたら市場は広がりません。二十代後半から三十代前半の女性を取るなら、今までと同じ見せ方では駄目だと思います」言っていることは間違っていない。遼一も、当初はその方向を支持していた。しか
第23話 私の企画が、七年ぶりに採用されたホテル・アステリアの改善案を正式に提出する日の朝、沙耶は目覚ましが鳴る十分前に目を覚ました。眠れなかったわけではない。むしろ前夜は珍しく早めに布団へ入った。それでも体のどこかが今日を意識していたらしく、目を開けた瞬間から頭の中に資料の構成が浮かんだ。由香の家へ来てから何度も使ったダイニングテーブルには、昨夜のうちにまとめておいた書類が置いてある。最終案は二十八ページ。最初に考えていたより、ずっと地味な内容になった。大規模改装はしない。若者向けへ一気にブランド転換もしない。新しいレストランを作るわけでも、有名人を呼ぶわけでもない。まず、今いる客を取りこぼさない。宴会、宿泊、レストランを別々のサービスとして売るのではなく、客がホテルを使う目的ごとに案内をつなぐ。法事。同窓会。家族の節目。親を連れた食事。地域へ戻ってきた人が、複数の用事を一か所で済ませられるようにする。そのうえで、現在の常連客から次の世代へ利用をつなげる。派手ではない。しかし今の沙耶には、それが一番アステリアに合っていると思えた。キッチンへ行くと、由香がすでにコーヒーを淹れていた。「おはよう。顔、固いよ」「そんなに?」「面接受けに行ったときより固い」沙耶は冷蔵庫からヨーグルトを出した。「今日は自分で考えたものを採るかどうか決められるから」「面接だって自分を採るか決められてたじゃん」「それとは違うよ」「何が?」沙耶は少し考えた。「面接のときは、私自身が評価されてる感じが強かった。でも今日は、私が考えたものが使えるかどうかを見られるでしょう。だから……」「自分と仕事を分けられる?」由香に先を言われた。沙耶は少し驚いて
第22話 「やっと仕事に戻ったんですね」久世蒼士へ渡す修正版の資料を仕上げたのは、日付が変わる少し前だった。沙耶は最後のページまで見直し、ファイル名をつけて保存した。『ホテル・アステリア現状分析_改訂版』いったん送信画面まで進み、そこで手を止める。今回は相川を通して久世ホールディングスへ送ることになっている。直接蒼士へ連絡するわけではない。それなのに、提出ボタンを押すだけで妙に緊張した。会議の最後に言われた言葉が残っている。――自分で出した結果まで、先回りして小さくする必要はないでしょう。資料を直すとき、その指摘を何度も思い出した。十一室の宿泊予約についても、以前なら「一件のみであり偶然の可能性も高い」と冒頭から予防線を張っていただろう。今回は違う。『試験運用一件目では、宴会付随の宿泊見込みが五室程度から十一室へ増加した。案内経路を整理したことで既存需要を取りこぼしにくくなる可能性が示された。ただし、現時点では一例のため継続検証が必要である』結果は結果として書く。そのうえで限界も書く。誇張もしない。縮めもしない。たったそれだけのことが、沙耶には思った以上に難しかった。「まだ送ってないの?」ソファでテレビを見ていた由香が、画面から目を離さずに言った。「今送る」「十五分前も聞いた」「最終確認してたの」「十二回目?」「今日は八回くらい」「改善したねえ」完全にからかわれている。沙耶は苦笑して送信した。「送った」「お疲れ」「……うん」「何、その顔。公開告白でもした?」「仕事の資料送っただけ」「じゃあ寝な」「そうする」そう言いながら、沙耶はすぐにはパソコンを閉じなかった。送った以上、もう自分の手から離れた。
第21話 七年ぶりに戻った業界で、私は彼と出会った久世ホールディングスとの打ち合わせを二日後に控えた夜、沙耶は資料の一ページ目を十二回目まで直していた。由香のダイニングテーブルにはノートパソコンとホテル・アステリアの資料が広がり、いつの間にか仕事用の場所として定着しつつある。最初は遠慮して毎晩片づけていたが、由香から「朝また全部出すなら端に寄せとけば」と言われて以来、食事のときだけ資料を重ねて椅子の横へ置くようになった。画面に表示されている一文は、前回から変わっていない。『ホテル・アステリアの問題は、魅力がないことではない。すでにある価値が、客の目的に沿ってつながっていないことである。』問題は、その次だった。十一室の宿泊予約が入った。宴会と宿泊の情報共有を変えたことで、少なくとも一件は取りこぼしを減らせた。レストラン利用者への聞き取りでは、若い世代がアステリアを嫌っているというより、「自分が使う場所として思いつかない」という反応が多かった。そこから、『設備別の販売から、利用目的別の提案へ』という方向性までは見えている。だが、それだけでホテルが立て直るとは言えない。「また消した」キッチンから由香の声が飛んできた。沙耶は驚いて振り返った。「見てたの?」「さっきからキーボードの音が、打つ、止まる、消す、打つ、止まる、消す、なの。聞いてるだけで分かる」「怖いな」「何に悩んでるの?」由香はマグカップを二つ持ってきて、一つを沙耶の横へ置いた。中身はコーヒーではなく、温かいほうじ茶だった。「ありがとう」「どういたしまして。それで?」沙耶は画面を見ながら答えた。「明後日の打ち合わせ、相手が大手だから」「久世なんとか?」「久世ホールディングス。ホテルだけじゃなくて、不動産もレストランもやってる。昔から業界では有名だった」「偉い人が来るんだ
第20話 ホテルが売っていたものを、お客様は欲しがっていなかった十一室の宿泊予約が入った翌日、沙耶は嬉しさをいったん脇へ置くことにした。数字が動いたのは事実だった。しかし、一件うまくいっただけで「改善策は成功です」と言ってしまえば、それまで何度も新しい施策に振り回されてきたアステリアの現場と同じことを繰り返す。なぜ十一室増えたのか。本当に共有方法を変えたことが理由なのか。もともと宿泊する予定だった人が、たまたまアステリアを選んだだけではないのか。確かめなければならなかった。午前中、沙耶は森川から同窓会幹事とのやり取りを見せてもらった。もちろん個人情報に触れない範囲だが、宿泊案内を送ったあとの反応は分かる。「最初は五室くらいって話だったんですよね?」沙耶が尋ねると、森川は頷いた。「幹事さんが把握してたのが五室です。でも案内を参加者全員に回してくれて、それを見た人から個別に連絡が来ました」「何が決め手だったか聞きました?」「二人だけですけど。片方は『宴会終わってそのまま部屋に上がれるなら楽だから』って。もう一人は『朝みんなで食べられるならこっちでいい』って」「料金は?」「安いとは言ってなかったです。駅前より少し高いですし」それは沙耶にとって重要だった。安くしたから取れた十一室ではない。利便性が伝わったから選ばれた可能性がある。「宴会会場と宿泊場所が同じこと自体に価値があるんですね」「まあ、飲む人には大きいでしょうね。駅前まで移動しなくて済むし」「でも、それって今まで積極的に案内してなかった?」森川が苦笑した。「聞かれたら答えてました」「聞かれたら」「はい」客が知らなければ、存在しないのと同じだった。沙耶はノートへ書き込む。『利便性はある。伝えていない。』それだけなら広告の問題にも見える。だが、







